日本26聖人上陸記念碑《浦郷》

 1596年、26聖人殉教の旅(堺から長崎まで)の途中、彼杵(東彼杵町)から海路を利用し、時津に上陸。一夜を過ごし、殉教地長崎へ向かいました。

26聖人上陸の碑の写真

日本二十六聖人 上陸の地解説

1587年(天正(てんしょう)15年6月)、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は九州平定後、筑前の筥崎(はこざき)で、九州各大名の 封域(ほういき)を決めたが、その折に長崎の地がイエズス会に 寄進(きしん)されていることを知った。これに 激怒(げきど)した秀吉は、キリスト教の 布教(ふきょう)を禁止する「 伴天連追放令(ばてれんついほうれい)」を発令した。

その後、1596年10月( 慶長(けいちょう)元年9月)、スペインのサン・フェリペ号が台風に()い、土佐に漂着した。土佐領主の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の報告を受けた秀吉は、五奉行 (ごぶぎょう)の一人増田長盛 (ましたながもり)を派遣し、サン・フェリペ号の莫大(ばくだい)な積み荷を没収した。積み荷の没収は、同年に起こった台風や大地震による甚大な被害や 朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい) に伴う莫大な出費により財政が切迫(せっぱく)していたことなどの影響もあったのだろう。 没収にあたり、同船乗組員がキリスト教の布教は、その地を植民地化(しょくみんちか)する前触れであると伝えた。

この報告を受けた秀吉は、激怒し、伴天連追放令を発布(はっぷ)していることを根拠に、京都で積極的に布教活動を行っていた宣教師(せんきょうし)信者(しんじゃ)(とら)えるよう命じ、フランシスコ会 司祭 (しさい)修道士 (しゅうどうし)6人、その教会に出入りしていた 信徒(しんと)14人、イエズス会のパウロ 三木(みき)ら3人、計24人を捕えた。

1597年1月3日、24人は左の耳たぶを切られた後、見せしめのために京都・大坂・堺で町中を引き回しにされた。その後、24人の処刑をキリスト教信徒の多い長崎で行うことが決まった。1月9日、一行は堺を出発し歩いて長崎へと向かった。 一行には、警護(けいご)がつき、病気や事故で死者が出ないように注意していた。旅の途中、行を共にしたいという2人の信者が加わり、一行は26人になった。

2月4日、一行は彼杵(そのぎ)につき、首に縄を掛けられ、その縄で両手を後ろ手に縛られたまま3 (せき)の舟に分乗して彼杵の波止(はと)出帆(しゅっぱん)。大村湾を越えて時津に着いたのは夜中(よなか)の11時頃であった。26人は雪の夜の寒さ、 ()え疲れに耐えながら、舟の中で 一夜(いちや)を過ごした。

翌2月5日早朝に時津の波止に上陸して(注意1)長崎に向かい、午前中には処刑場の西坂に着いた。刑場(けいじょう)では一人ずつ十字架(じゅうじか)()けられ、(やり)を受けて絶命した。

26人の殉教(じゅんきょう)は、長崎に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスなどの報告書によりヨーロッパに伝えられ、大きな反響を呼んだ。その後、1862年(文久 (ぶんきゅう)2年)には、 教皇(きょうこう)ピオ9 (せい)により「聖人」に (れっ)せられた。

  (注意1)・・・26人が上陸した場所には、時津の波止、浜田の波止あるいは 北泊(きたどまり)という説がありますが、はっきりとは分かっていません。

 

長崎外国語大学『Gaidaiプロジェクト』の一環である『地域社会多言語化プロジェクト』にて英語訳のご協力をいただきました。

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更新日:2025年03月10日