1587年(天正15年6月)、豊臣秀吉は九州平定後、筑前の筥崎で、九州各大名の 封域を決めたが、その折に長崎の地がイエズス会に 寄進されていることを知った。これに 激怒した秀吉は、キリスト教の 布教を禁止する「 伴天連追放令」を発令した。
その後、1596年10月( 慶長元年9月)、スペインのサン・フェリペ号が台風に遭い、土佐に漂着した。土佐領主の長宗我部元親の報告を受けた秀吉は、五奉行 の一人増田長盛 を派遣し、サン・フェリペ号の莫大な積み荷を没収した。積み荷の没収は、同年に起こった台風や大地震による甚大な被害や 朝鮮出兵 に伴う莫大な出費により財政が切迫していたことなどの影響もあったのだろう。 没収にあたり、同船乗組員がキリスト教の布教は、その地を植民地化する前触れであると伝えた。
この報告を受けた秀吉は、激怒し、伴天連追放令を発布していることを根拠に、京都で積極的に布教活動を行っていた宣教師や 信者を捕えるよう命じ、フランシスコ会 司祭 と修道士 6人、その教会に出入りしていた 信徒14人、イエズス会のパウロ 三木ら3人、計24人を捕えた。
1597年1月3日、24人は左の耳たぶを切られた後、見せしめのために京都・大坂・堺で町中を引き回しにされた。その後、24人の処刑をキリスト教信徒の多い長崎で行うことが決まった。1月9日、一行は堺を出発し歩いて長崎へと向かった。 一行には、警護がつき、病気や事故で死者が出ないように注意していた。旅の途中、行を共にしたいという2人の信者が加わり、一行は26人になった。
2月4日、一行は彼杵につき、首に縄を掛けられ、その縄で両手を後ろ手に縛られたまま3 隻の舟に分乗して彼杵の波止を 出帆。大村湾を越えて時津に着いたのは夜中の11時頃であった。26人は雪の夜の寒さ、 飢え疲れに耐えながら、舟の中で 一夜を過ごした。
翌2月5日早朝に時津の波止に上陸して(注意1)長崎に向かい、午前中には処刑場の西坂に着いた。刑場では一人ずつ十字架に掛けられ、槍を受けて絶命した。
26人の殉教は、長崎に滞在していたイエズス会宣教師のルイス・フロイスなどの報告書によりヨーロッパに伝えられ、大きな反響を呼んだ。その後、1862年(文久 2年)には、 教皇ピオ9 世により「聖人」に 列せられた。
(注意1)・・・26人が上陸した場所には、時津の波止、浜田の波止あるいは 北泊という説がありますが、はっきりとは分かっていません。
更新日:2025年03月10日